おばあちゃんへ

お墓参りにいってきた。
11日が祖母の命日だったので。
都心から電車を乗り継いで緑の多い都下まで約1時間。
駅をおりてから花やら線香やらビールをかかえて
お墓にむかった。


祖母はどんな時でも着物をきちんと着ていて
せすじののびた明治のひとだった。
私は小学校にあがるまで親妹弟とはなれて
祖母とくらしていた。

祖母とのくらしは厳しくもあった。
決められた時間にかえってこないと
家になかなかいれてもらえなかった。

けれど 今 覚えているのはすべて
あたたかく楽しかった毎日のことだけだ。
思い出されるのは やさしい祖母の笑顔だけだ。

あまりにも満ち足りていたからか
私がもともと マイナス思考の子どもだったからか
いつかくるであろう祖母との永遠の別れをおそれていた。
祖母がねていると 心配になって
鼻に耳をよせて 息をしているか確かめた。
このまま目をさまさないんじゃないかと
毎日心配だった。
祖母がいなくなったら私はどうなるんだろう
生きていられるんだろうか。
その事はずっと心の中に重く居すわっていた。
いつかくる それは今日かもしれない 明日かも と


そのおそれはそれから21の初夏に祖母が亡くなるまで続いた。



「もう こんな時間だ」
お墓の横に陣取って 祖母とともにビールをのんでいたら
すっかりいい気もちになってしまい
きがついたら夕方の声がきこえそうな時刻になっていた。


私は今も たくましくはないけど 生きている。
毎日仕事にいき 家の営みもこなし
大人としてすごしている。
たまに祖母を思い出して泣くけれども
もう一緒にいなくなりたいとは おもわない。



ちらかしたおつまみをかたずけて
祖母の墓に「またくるね」とつげてかえる時の一瞬のさみしさは
ずっと続くだろうけれど。